悟りなんて要らなかった

真理というのは、人生哲学の基盤であり、苦境を抜けるための切り札でもある。

では悟りとは何か?

悟りとは、決して特別なものではない。

悟りとは、己を知り、世の成り立ちを知ることである。

そしてそれは、なぜこの時代を選び、この個性を選んで生まれてきたのかを知ることでもある。

これらが真に腹落ちしたなら、人生に悩みなんて生まれようがない。

世の中のリーダー達が、真理や悟りを求めて、インドに行ったり寺を訪ね、スピリチュアルに嵌まる理由はここにある。

要は、真理や悟りというのは、その視座が「有益で便利である」という事実があるわけです。

なぜなら、悟りが深まれば、あらゆる悩みやプレッシャーから解放されるから。

そりゃあ瞑想してる時と同じ心地で仕事ができたなら、電車が大幅遅延しても、SNSの罵詈雑言を見ても無風であれたなら、最高に幸せに違いないでしょう。

でも実際は、真理や悟りだけを胸に生きていくことは難しい。

人の心は儚い。簡単に揺らぐ。

深い心地良さも、通知ひとつ、メールひとつであっというまに吹き消される。

すぐ妬くし、軽率に悲観するし、簡単に落ち込む。

悩みと無縁になる、というのは、意識レベルで言えばかなり「先」の話であると言わざるを得ない。

それが日々セッションを通して、さまざまな意識に向き合う立場としての感覚です。

でも、これは日々人を霊視させていただく立場としての、個人的な主観ですが。

最も美しい光彩を放つ人というのは、実は悟りを開いた人たちでも、スピリチュアルな人たちでもありません。

お坊さんでも、神職さんでもないし、もちろん、多くの数字を抱える著名な人や「成功者」とも限りません。

思わず見惚れるほどの、美しい光彩を放つ人というのは、

日々を楽しみ、自身の自然体を愛し、そして自分と他人を喜ばせることに全力で夢中になっている人たちです。

私はこれに気が付いたとき

「なんだ、真理とか悟りとか散々やってきたけど、べつに要らなかったんじゃないか」

そう思って、わりと普通にショックでした。

聖地で鍛え霊能者や覚者に教えを請うてきた私の苦労はいったいなんだったんだと。

でもすぐにもう一つの事実に気が付きました。

それは、美しい光彩も、ふとした瞬間に翳るということです。

挫折、トラブル、意義の喪失。

些細な無理と違和感の積み重ねの果てで、どれほど強靭な人でもある日突然ころりと落ちてしまうのです。

離婚、家庭崩壊、違法薬物、色欲堕ち、精神疾患。あんなに順調だったのにどうして、と。

そして翳って、落ちて、戻ってこられない人たちがいる。

現在地点からどうやって「次の景色」を見に行ったらいいのか、分からずに途方に暮れている人たちがいる。

そうした人たちにとっては「悟りの視座」を得ることは、人生の苦難をさらりと切り抜けるための、伝家の宝刀、切り札となります。

あるいは、そうなる前にこの視座を手に入れられれば(そして窮地でちゃんと思い出せれば……)、人生において怖いものは無くなります。

この悟りの視座は、命を燃やして生きている人たちにとって知る意義がある。手に入れていただく価値がある。

だって元々美しく輝いてるんだから、その輝きが曇った瞬間に翳りを払えば済む。いたってシンプルな話です。

翳りを切り離す刀を、心に宿すことをお教えできるなら、私が紆余曲折やってきたことにも価値がある。

そう思って、私はこの仕事をしています。