なぜ社会貢献は立派ではないのか?

こんにちは、大場麻以です。

いま、温泉旅館でぼんやりしながらこの記事を書いています。

旅行にあたって、3回に一回は旅先でリモートワークごっこをしようとするのですが、いつも上手くいきません。

心地よい空間で満たされていると、作業はそっちのけで、目の前の豊かさに浸ってしまいます。

旅館でしか味わえないおもてなしってありますよね
今回は初夏の満月に月見温泉に行きました

しかし今回はふとSNSを見たときに、「これは言及しておきたいな」と思うことがあったので、足湯に浸かりつつ(笑)、この記事を書くことにしました。

「世のため人のため」は本当に崇高なのか

よく社会貢献を「立派だ」「素晴らしい」と評価する人がいます。

  • 世のため人のため
  • 利他の心

こうした意識や考え方を持つことは、起業家として、経営者として、そして人として至高の領域だと、私たちは当たり前に認識してきました。

しかし、実は社会貢献は、さほど立派ではありません。

これは社会貢献がどうこうというより、「取り立てて何かが立派である」という見方は、高次元の視点では有り得ない、ということなんです。

私たちは自分だけの宇宙で、究極の一人遊びをしている

私たちは自分の人生に映る情報、得られる気付き、体感、感情の全てを、100%自分の意識から創っています。

つまり、私たちは皆、一人の例外もなく、自分だけの宇宙、自分だけの光の中で、究極の一人遊びをし続けているのです。

つまり、

自分がなんとかしてあげなきゃと感じる誰かも、

貢献すべきと使命感を感じる何かも、

「貢献意識を満喫するために、自分で創り出した現実」

でしかありません。

ですから、

「社会貢献、楽しそうだね」

はあったとしても、

「社会貢献、立派だね」

とはなりえないのです。

すべてが一人遊びなら、あなたは何を目指すのか

社会貢献や他者貢献ですら、立派ではない。エラくない。

「皆が皆それぞれのひとり遊びだから、貢献するかしないかに意味はないから、どっちでもいい」としたら、あなたは人生で何を目指しますか?

家族のために頑張ったからと言って、それはただ「好き好んで家族のために頑張った」、それ以上でも以下でもないとしたら、あなたはこれから何のために頑張りますか?

たくさん稼いで、たくさん豊かさのトロフィーを集めても、スゴくもなければ、尊敬すべき何かでもないとしたら、あなたは何のためにビジネスをしますか?

そう、すべてが一人遊びなら、何一つ頑張る意味がない。

何一つ崇高でないのなら、「上」を目指す理由もない。

これは覚醒段階が一定まで来ると襲われる、虚脱感のひとつです。

自分で成果を勝ち取ってきた人こそ、この「でもそれって大した意味ないよね。価値ないよね」という真理は耐え難いものがあります。

しかし、だからと言って「何もかも無意味だ」と無気力に生きるなら、せっかく生まれてきた命が非常に勿体無い。

では、私たちは何を目的に、どのような姿勢で、この人生を生きていけばいいのでしょうか。

自分の光の純度を上げながら、光からビジネスを創る

それは、自分の光の純度を上げながら、光を拡大すること。

そしてすべての動機を、もちろんビジネス動機をも、自分の内側の光から生み出すことです。

光の純度を上げながら拡大すれば、

あらゆる「できない」が「できる」に転換し、「やりたい、でも」が「ぜひやろう」に変わります。

赤字になろうと、褒められなかろうと、社内的価値が薄く見えようと、ただやりたいからやる。

この境地は一見、成功率が低い、行き当たりばったりのように見えます。

しかし境地では、物事の達成がどんどん簡単になっていくのです。

これは存在のエネルギーとしての次元が上がることによって、あらゆる現象が繊細かつ「柔らかくなる(結びやすく、解けやすくなる)」からでもあります。

そして、自分の光の内側から生まれた同期に素直に沿って動くと、すべ行動の結果が「長期的な最善」に帰結していくのです。

光を拡げながら、光からビジネスと人生を創る。

これは、目に映る現象という名の映像に、執着したり、拒絶したり、一喜一憂するのではなく。

すべての現実・現象はただの映像だと理解して、自分の内側の光だけを見つめて、その光から好きなものを好きなだけ創り出すということです。

世の中には、特別偉いものも、立派なものも、崇高なものもありません。

だからこそ、社会的な評価、他人からの称賛、憧れの人の模倣で、自分のビジネスや人生の道を決めない。

自分が心から望むビジネスだけをする。

これが、「光からビジネスを創る」ということです。