こんにちは、エグゼクティブコーチの大場麻以です。
- 帝王学とは何か
- 帝王学を学びたい
- 帝王学を学ぶだけでなく経営に活かしたい
このように考えいてるあなたのために、この記事をまとめました。
帝王学とは
帝王学とは何か?
この定義を明確に知ることは、帝王学にまだ馴染みがない経営者にとっては、もっとも大切です。
帝王学の定義「在り方の学問」である理由
帝王学を一言で表すなら、「先人から口伝で学ぶ人間学」です。
手法を極めるのではなく、在り方を極める。それは「道の学問」でもあると言えるでしょう。
本物の「帝王学」とはどれを指すか?
現在、世の中にはさまざまな「帝王学」が存在します。
しかしその中には、芯を捉えたものから、表層的なものまで非常に多様です。
ここでは多様な帝王学を分類し、その本質度合い区分して紹介します。
古典・文化・哲学ベースの帝王学層
本質度:★★★★★
組織論・リーダーシップとしての帝王学層
本質度:★★★
古典の中から「手法論」にあたる教えを抜粋し、組織運営、リーダーシップ論について扱います。
即日使うためのスキルとしての位置付けが強く、在り方はあくまで補足となります。
取り入れやすいため、教育・育成・研修プログラムとして需要があります。
占術スピリチュアル×帝王学層
本質度:★
四柱推命や算命学等を「占いの帝王」と位置づけ、宿命や運気を知り、売上アップを目指すという考え方です。
天の動きを経営を連動させ、統計学としての占術をリスクヘッジに用いることに重きを置いています。
なぜ今、経営者に帝王学が必要なのか
帝王学の源流と主要な古典
それでは帝王学の元となる古典についてご紹介します。
東洋思想の系譜
帝王学と聞くと、はじめに東洋思想の系譜をイメージする経営者は多いはずです。
『貞観政要』
- 中国(唐) 約1,400年前
- 太宗と臣下たちとの政治論議を呉兢が編纂
帝王学という分野において、もっとも著名な書であり、「帝王学の教科書」とも言われています。
唐の時代に編纂され、唐の二代皇帝・太宗と臣下たちの対話を記した書であり、「貞観」は太宗の在位の年号を示し、「政要」は政治の要諦を表します。
まさに「いかにして国を治め、人を導くか」という問いに対する、実践知の集積であると言えるでしょう。
特に有名なのは、太宗が「諫言を歓迎した」という姿勢です。
自分に都合の悪いことを言う者を遠ざけず、むしろ積極的に聞き入れた。それが貞観の治と呼ばれる太平の世を生んだとされています。
現代の経営に置き換えれば、耳の痛い情報ほど経営判断の質を高める、ということです。
優秀な経営者ほど「イエスマン」に囲まれやすいという現実を、千四百年前の書物がすでに指摘しているのは、興味深いことではないでしょうか。
経営のみならず、組織マネジメントにおいてすぐに活かすことができる、実用的な教えが教えが説かれています。
『論語』
- 中国(春秋時代) 約2,500年前
- 孔子の言葉を孔子の門人達が記録
孔子が教えるのは、「徳による統治」です。
力や制度で人を動かすのではなく、リーダー自身の人格と在り方によって、周囲が自然と動く状態を目指す。
特に有名なのは、「為政以徳」、徳をもって政を為すという一節でしょう。
ルールを増やしても組織は良くならない。
トップの在り方が変われば、組織は変わる。
これは多くの経営者が実感していることでもあるでしょう。
そして組織はトップの器以上には大きくならないことから、経営者の修身を重視しています。
『道徳経』
- 中国(春秋時代) 約2,600年前
- 老子
道徳経とは、宇宙の根本原理である「道(タオ)」に沿い、あるがままに生きることを説いています。
つまり身勝手な知恵や欲を捨て、大いなる流れに身を任せよ、ということです。
この場合の”身勝手”とは、論語で語られるような「いかにして人を治めるか」といった、実利を求めるリーダーの在り方も含まれます。
そのため、論語と道徳経は同年代の教えではありますが、あくまで人間目線の論語とは、同じ中国古典でありながら、その内容は根本的に異なります。
ものの見方としての視座が一段高いのが、道徳経です。
『易経』
- 中国(周) 約3,000年前
- 原典不明
易経は論語よりもさらに奥深く、「いかに導くか」や「いかに徳の道を歩むか」を超えた教えです。
万象の摂理、世の中の原理原則を解いています。
摂理や真理というのは、「なぜそう成るのか」「これからどう成るのか」を普遍の法則性そのものです。
この法則をもって、
「いま自分はどの位置にいるか」
「次にどう動くべきか」
という判断の軸を与えるのが易です。
単なる占術ではなく、陰陽の消長という自然の法則を経営の意思決定に活かす思想です。
時流を読み、機を逃さず、退くべきときに退く。
判断に迷うような経営の場面においても、摂理を理解していれば焦らず悩まず、健全かつ最善の判断をすることが可能になります。
西洋思想の系譜
西洋にも、帝王学に相当する思想の系譜があります。
より実用的な「現場での対処」に重きを置き、東洋における貞観政要に近い思想が多くを占めます。
『君主論』
- イタリア 約500年前
- ニッコロ・マキャヴェッリ
マキャベリの『君主論』は、しばしば「冷酷な権力論」として誤解されます。
リーダーには「ライオンのような勇猛さと狐のような狡猾さ」が必要であるというフレーズが非常に有名です。
これは著者がイタリアの政治的混乱のさなかで、外交に従事してきたという背景によるものです。
- 宗教的・道徳的軌範から離れるべきである
- 現実的な権謀術数が政治の本質である
と説き、近代の政治思想、国家論に大きな影響を与えました。
東西問わず、混乱、動乱の時代においては、人間学的な教えは陰を潜め(場合によっては淘汰され)、実利を求める教えが強まります。
君主論は「理想ではなく現実の中で、どう組織を守り、民を安定させるか」という実践的なリーダーシップ論であり、当時の情勢の過酷さを物語っています。
現代においては、ときに退廃的な理想主義に逃げたくなる経営者に対し、冷静沈着な視点を与えるものです。
『自省録』
- 古代ローマ帝国 約1,900年前
- マルクス・アウレリウス・アントニヌス
『自省録』は後期ストア哲学の影響を色濃く受け、著者の思索の記録であると同時に、倫理学的な探究の側面もあります。
「徳は幸福により十全となる」
「徳は自然と一致した意志にこそ存する」
これらが後期ストア哲学の主な思想です。
皇帝でありながら日々の思索を記し続けた著者のアウレリウスが繰り返し自らに問いかけたのは、「自分がコントロールできることに集中せよ」という原則です。
外部環境への反応ではなく、自分の内側の状態を整えることを最優先にする。
この思想は、変化の激しい時代に経営者が軸を失わないための、根本的な処方箋です。
東洋と西洋、いずれの系譜も「外を治める前に、内を治めよ」という一点で交差しています。
それが帝王学の普遍的な核心です。
帝王学の三つの核心
帝王学は広大な学問領域ですが、その核心を凝縮すると三つの柱に整理できます。
それは、天道、地道、人道です。
この天・地・人のキーワードは、『三才思想』という中国を起源とする宇宙の構成要素です。
天道、地道、人道もこの三才思想がベースとして老子によって語られています。
また孟子は「戦に勝つ条件」として天の利、地の利、人の和としての「天地人」を説きました。
フレームワークとしても何かと便利な三才思想すが、この天道、地道、人道の三要素は、帝王学の核心でもあるのです。
天道
天の動き、天の意思が天道です。
老子は天の動きをニュートラルなもの「天地不仁(天に意思や贔屓の情はない)」とし、人智学のルドルフ・シュタイナーや、実業家の中村天風など、後世においてはその働きに「大きな愛」を見出しています。
また一方で儒教批判で有名な墨子は「天は人々が互いに愛し合うことを望んでおり、それに従う者には福を与え、背く者には災いを下す」として、天罰について説いていました。
思想の形はこのように多様に見えますが、実はすべて同じことを指しています。
つまり
「天には人間とは異なる意図があり、それに沿うものは生かされる」ということ
「物事に正誤善悪の色をつけないニュートラルさこそが愛である」ということです。
これは天を良心的な親として捉えると分かりやすいかもしれません。
子は親の思惑を察することができません。
贔屓がないと見えるもの、天罰のように見えるものも含めて「天の意図」であり、「愛」であるとしたら、それは子よりも視座の高い親の判断であり、結果として生かされることも道理です。
親の意図を無視すれば、怪我をしたり、危険な目に遭うこともあります。
しかしそれも子にとっては学びであり、親にとっての愛です。
推し量れない親の考えを知ろうというのが『易経』や各占術であり、その意図に沿って生きようというのが『道徳経』なのです。
地道
地での動き、地での活動が地道です。
「いかにして争いに勝つか」「いかにして国を治めるか」といった地上での実利、成果、成就のためにどう振る舞うべきか、という枠組みが「地道」です。
私たちにとってもっとも身近であり、そしてもっとも惹かれやすい分野である「手法論」の分野でもあります。
帝王学においては、『貞観政要』、『孫子兵法』、『君主論』がこの地道にあたります。
しかし私たちは、この地道こそがすべてであるかのように考えがちです。
東洋も西洋も、争いが激化し混迷するほど、天道は地道のために都合の良いところだけ利用すべきツールとなり、人道は実利にならない、取るに足らないものとして破棄されてきました。
資本主義経済、そして地の時代においてはそうした視野狭窄が蔓延していたと言えます。
人道
人道とは「人の生きる道」です。
「どのように生きるか」「どのように在るべきか」を問い、実践する道徳的、倫理的分野が人道です。
『論語』、『道徳経』、『自省録』、『武士道』などはこれにあたります。
特に日本における帝王学は、人道と天道に特に重きを置いていたと言えるでしょう。
しかし人道というのは天と地のあいだにあるものであり、どちらに拠るかによって、前提が大きく変わります。
たとえば『論語』は仁や礼によって、意識的に徳を積んでいく在り方を指す、「地道」寄りの考え方です。
これは「未熟で不出来な自分を、世に認められる存在として立派に立てるための教え」であると言えるでしょう。
しかし『道徳経』は、天の意思に沿ってただ在る、ただ生きるという在り方を指す「天道」寄りの考え方です。
これは「人間は大いなる天の一部であり、ただ在るだけで完成されている」という在り方です。
もちろん、天道、地道、人道は明確に白黒つくものではなく、グラデーションです。
しかし「どのように生きるか」「どのように在るべきか」は、世の中をどのように捉えているかによって、180度内容が変わるものなのです。
天地人を統合する経営
帝王学も古典によって、天道、地道、人道、どこに重きを置いているのかは全く異なります。
では全体を包括したとき、人はどのように生きることが理想なのか?
それは、「天道を知り、天道の中に人道を見出し、地道を営む」ということです。
これまでの時代感では、「まず地道、余力があったら人道、天道なんて知ったことか」という考えが普通だったと思います。
しかし現代においては時代の流れが大きく変わりました。
具体的には天体の周期が変わり、木星と土星の天体上の合流地点が2020年以降切り替わり始め、2024年11月20日に後戻り無しで完全に切り替わったと示されています。
これが西洋占星術においては「風の時代」と言われ、東洋の宿曜占星術においては「三元九運」と言われるものであり、東西ともに「時代が変わった」という読み方が合致しています。
つまり天道が変化し、次のフェーズに入ったということです。
物質から精神へ、形あるものから形ないものへ、地から天へ、組織から個へ、隠されていたものが明るみになる、そのような変化が起こっているということです。
この時代においては、地道ばかりにこだわることも、地道に拠った人道に固執することも終え、天道へと目線を上げていく必要があります。
つまり経営においては、「天道を知り、天道の中に人道を見出し、地道を営む」こと、つまり「天命を理解して経営する」ということなのです。
そして天道を知ることを「悟り」と言い、天道の中に人道を見出して生きることを「覚醒」と言います。
経営者が帝王学を学ぶとどう変わるか
天道を知り、天道の中に人道を見出し、地道を営む。
この統合が経営者の中で起き始めると、経営の現場に3つの変化が現れます。
それが、意思決定の質が変わる直観力、人と組織が変わる影響力、そして経営と人生の時間軸が変わる人間力です。
意思決定の質が変わる直観力
経営者の仕事の本質は、意思決定です。
多くの経営者が直面する難題は、「正しい情報が集まらない」ことではありません。
「情報が揃っているのに決断できない」か、
「決断したのに後から迷い直す」という状態ではないでしょうか。
この問題の根底には、判断の軸の不在があります。
情報や数字は外部から与えられますが、それを「どう解釈するか」「何を優先するか」という軸は、経営者の内側にしかありません。
その軸が不明確なまま経営を続けると、判断のたびにブレが生じます。
外側の意見、情報、トレンド、数字に振り回され続けると、そのたびに判断の軸も質も変わってしまい、「正解を探す経営」になってしまうのです。
では、この「判断軸」とはどのようにして手に入れたらいいのか。
経営者にとっての重要な判断軸が、「直観力」です。
直観力とは、感覚的なひらめきやフィーリングとは異なります。
天道と経営者の精神が繋がっているときに生まれる静かな確信であり、論理を超えて最高最善の正解を導く力です。
自己認識が深まり、恐れや欲への執着が薄れるほど、この確信は精度を増します。
地道寄りの判断、つまり数字・論理・前例に基づく判断だけで経営していると、論理では解けない問いに立ち往生します。
市場に前例のない判断、人と組織に関わる複雑な決断、長期の方向性を決める問いにおいては特に、どれだけデータや論理を並べても、最後は直観に頼るしかありません。
帝王学の本質を捉えている経営者の意思決定は、速く、静かになります。
速いのは、軸が確立されているからであり、静かなのは、恐れや虚栄心に揺さぶられる部分が薄れるからです。
「これが正しいかどうか」ではなく、「これが天の意図と自分の道に沿っているかどうか」という問いが、判断の基準になります。
結果として、決断のスピードが上がるだけでなく、決断への後悔が減るわけです。
そして実際、後悔することはまずありません。
それは虚栄心や強がりではなく、天道に沿えば最終的には必ず生かされるので、そもそも後悔するような結果にはならないのです。
人と組織が変わる影響力
経営者の在り方は、言葉や指示よりも速く、確実に組織に伝わります。
会議での発言、部下との一対一の対話、困難な局面での振る舞いにおいて、経営者がどのような存在感を放っているかが、組織文化の実態を決めます。
マニュアルや制度ではなく、経営者という「生きた手本」が、組織に最も大きな影響を与えるのです。
ここで重要なのが、人道の視点です。
論語的な人道、つまり意識的に徳を積み、礼によって組織を整える道は、地道に拠った人道です。
これは確かに組織に一定の秩序と、経営者への崇敬をもたらします。
しかしこのアプローチは、経営者が「正しく在ろうとする努力」を必要とし続けます。
努力を止めれば崩れる、恐れと不安によって揺らぐ、意志の力に依存した在り方です。
これに対して、天道に拠った人道とは何か。
「人間は大いなる天の一部であり、ただ在るだけで完成されている」という前提から人と組織に関わることで、すべてのものの捉え方が一変します。
自分も相手も、すでに完成されている存在である。
この認識から人と接するとき、コントロールの必要がなくなるのです。
管理や評価ではなく、その人の本質を信頼することが自然にできるようになります。
経営者がこの在り方になると、組織に起きる変化は静かですが根本的です。
感情的に乱れない、圧力で人を動かさない、失敗を責めるより学びを引き出す。
こうした在り方は、組織の心理的安全性を高め、人の能力を最大限に引き出す土壌をつくります。
トップの器が変わると、組織の器が変わります。
組織の器が変われば、その器に沿って人が育つのです。
そしてひいては、事業と経営の「結果」が変わります。
帝王学が「手法より在り方」を重視する理由は、この連鎖にあるのです
経営と人生の時間軸が変わる人間力
帝王学を学ぶ前と後で、最も根本的に変わるのは「時間軸」です。
現代のビジネス環境は、四半期ごとの数字、月次の進捗、週次の報告と、短期の結果を絶えず問い続けます。
その圧力の中で、経営者は知らず知らずのうちに「今月どうするか」という思考に支配されていきます。
しかし天道の視点に立つとき、時間軸は根本的に変わります。
易経が示す天道の法則は、個人の一生や一企業の存続をはるかに超えた時間の流れを扱います。
天体の周期、時代の変化、陰陽の消長といった、大きな流れを知ることで、今の自分の経営がどの位置にあるかが見えてきます。
今は攻める時か、守る時か。
今は拡大すべき局面か、深化すべき局面か。
この判断が、地道の視点だけでは論理的に決められない問いです。
数字では出てこない。
しかし天道を知ることで、あるいは天道と繋がる直観をもって「今はここだ」という確信が生まれます。
また、天道を知った経営者は「自分の経営の意味」を、事業の成功や失敗とは別の軸で捉えるようになります。
この事業を通じて何を世に残すか。
自分がこの時代に生まれた意味は何か。
これらの本質的な問いに向き合うことが、経営と人生を統合していきます。
それは、売上や規模を超えた場所に、経営の軸を持つということです。
この軸を持つ経営者は、困難な局面でも揺らがず、短期の数字が苦しくても、方向性を見失うこともありません。
なぜなら、どんな状況でも「自分はなぜここにいるのか」という問いへの答えを持っているからです。
これが人間力の深まりです。
人間としての器が広がるほど、経営の器も広がります。帝王学が究極的に目指すのは、事業の成功ではなく、経営者としての人間的完成です。
そしてその完成の先に、事業は自然に繁栄していくのです。
帝王学を学ぶ3つのアプローチ
帝王学への関心が高まる一方で、「どこから、どのように学べばよいのか」という問いを持つ経営者は多くいます。
ここでは3つのアプローチをご紹介します。
それぞれに意味があり、そして限界があります。その両方を正直にお伝えします。
古典を読む
帝王学の入門として、古典を読むことは最も手軽で、かつ本質に近づける方法のひとつです。
最初の一冊として手に取りやすのは、地道、人道を扱う『貞観政要』の現代語訳ですね。
ただ個人的には『易経』『道徳経』を推奨します。
なぜなら現在の風の時代という時勢において優先度が高く、且つ多くの経営者に欠けているものが天道の教えだからです。
人に勧められるまでもなく、地道、人道の教えは心惹かれ手に取りやすいものです。
どれほど重要であっても、実利に直結するイメージが湧きにくいものほど後回しになってしまうものです。
また、古典を読むだけでは当然限界があります。
世の中において悪政を敷いた人も、経営において悪事に手を染める方も、拝金主義的な人も、パワハラ色が強い人も、人一倍古典から学んでいます。
つまり学んだことを忘れてまったく活かせないか、学んだことを悪用するか、学んだことと真逆のことをする人のほうが多いのです。
知識として理解することと、それが経営の判断や行動に反映されることの間には、大きな距離があります。
経営者にとって器を磨き、在り方を修めるというのは、本人の「より良い人間で在りたい」という絶対的な意思が不可欠です。
なぜなら、どのようなときもこの絶対的な意思を当然に持てる経営者というのは、悟りと覚醒を深めていくことが天命に設計されているからです。
誰もが「立派な人間になりたい」「素晴らしい人生を送りたい」「より良い経営者になりたい」と言います。
しかし私の経験則上、9割は口だけです。
なれるものならなりたい、できるものならそうしたい。
でも、そのための努力は忙しいから、それどころじゃないから、あまりしたくない。
残念ながら、ほとんどの方の本音はこのようなものです。
古典は経営者にとって優れた地図ではありますが、地図を読めるようになることと、実際にその土地を歩けるようになることは、全く別のことです。
師から学ぶ
帝王学がなぜ「口伝」とされてきたのか?
その理由は、学ぶ内容の性質にあります。
技術や知識であれば、書物やオンライン講座から習得できます。
しかし帝王学が扱うのは、在り方の変容です。
自己認識の深化、直観力の開発、天道との接続は、単なる「知識の習得」ではなく、人間としての深まりを必要とします。
自己認識には、必ず盲点があります。
自分では気づけない自分の思い込み、行動パターン、恐れの構造。
これらは、自分ひとりでいくら内省しても見えない部分です。
なぜなら、それを見るための「目」自体が、その盲点の影響を受け、多かれ少なかれ曇っているからです。
師はその盲点を映す鏡になることです。
あなたが気づいていない在り方のパターンを照らし、問いを投げかけ、変容のプロセスを伴走すること。
それが「人から教わる」ことの本当の意味です。
どれだけ古典を読んでも、師との対話を経て初めて「ああ、これが自分の盲点だったのか」と気づく経営者は少なくありません。
頭で理解していた帝王学が、初めて体に入る「体得」の瞬間があります。
しかし、曇った目の師につけば、得られる気づきも半端なものになります。
曇っているだけならまだしも、天道から外れ、あるいは人道や地道から外れていれば、師がくれる指摘もまた「外れたもの」になります。
「誰から教わるか」が、経営のみならず人生を大きく左右するのです。
実践で磨く
学び、師から受け取ったことは、必ず経営の現場で試されます。
帝王学は、書斎の中で完成する学問ではありません。
困難な判断を迫られる場面、感情が揺れる局面、先が見えない状況でこそ、学んだことが血肉になるかどうかが問われます。
実践で学ぶとは、うまくいかなかったことを失敗とみなすのではなく、「自分の在り方のどこが表れたか」という問いで振り返ることです。
結果を外部の要因に帰属させるのではなく、自分の判断と在り方に立ち返る習慣。
これが実践を道場にするための、唯一の方法です。
また、風の時代においては、この実践の意味そのものが変わりつつあります。
地の時代における実践とは、「より良い結果を出すための試行錯誤」でした。
しかし天道の視点に立つとき、実践とは「天の意図が自分を通じて地道に現れるプロセス」になります。
自分が何かをしているのではなく、天道が自分を通じて動いている。
この感覚が深まるほど、経営は力みではなく流れになっていきます。
古典から土台を作り、師との対話で盲点を照らし、経営の現場で実践を積む。
この三つのサイクルが回り始めたとき、帝王学は知識から知恵へと変容します。
答えを得ることではなく、問い続け、探究し続けること。
それが「帝王学を学ぶ」ということの本質です。


























もっとも核心に近い王道層です。
『貞観政要』『君主論』『孫子兵法』『論語』などの古典から学ぶ帝王学で、経営者の人間力を高めることがより良い組織と事業を作るとした人間学を扱います。
手法以上に在り方に重きを置き、手法は在り方に伴うという考え方です。
やすかお松下幸之助、稲盛和夫著名な経営者や実業家たちも参考にしてきた格式ある領域です。