直観力を鍛える「洗心」の心得

こんにちは、エグゼクティブコーチの大場麻以です。

私はいつも「直観はスキルであり、習得することができるものである」とお伝えしています。

いつもお伝えしているように、直観を磨けば、あらゆる投資ミスから無縁になります。

直観に従って動けば動くほど、やることなすことが「すべて上手くいく」という状態になるのです。

それなのに、なぜか皆それを傍に置いて、マーケティングスキルの勉強や、経営論の学習にばかり没頭するわけですから、とても勿体無いなと思います。

今回は、直観においてもっとも重要な基盤となる「洗心」について説明します。

洗心の起源は易学

まずあなたは、「洗心」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

茶室の入り口にある「つくばい」で手を洗う行為を、心も洗うことになぞらえて「洗心」と呼んだり、

神社の手水舎に「洗心」という文字が刻まれていたり

限定的ではありますが、様々な場所にこの二文字が使われています。

実は「洗心」の起源は、易経における『繋辞上伝』の「聖人、これをもって心を洗い、退いて密に蔵る」という一節が原点であると言われているのです。

聖人、これをもって心を洗い、退いて密に蔵る

この一節は、主にこのような意味合いになります。

聖人、これをもって: 聖人は、この易の理法(=摂理・原理原則)を用いることによって
心を洗い: 雑念や私欲を取り除いて、自らの心を洗い清め
退いて密に蔵る: 表舞台から一歩退いて、静寂の境地へと現実から一歩引いて、自分自身の内面や、宇宙の摂理に向き合う

この言葉は摂理・原理原則としての「易」が、いかに人の精神を高めるかについて説明している場面で登場します。

(ちなみに、ここでの「聖人」とは世捨て人や、俗世を離脱した修行僧ではなく、「指導者・リーダー像」です)

易の知恵に触れることで、人は表面的な欲求や迷いを洗い流すことができ、それによって目に見えない微細な変化を察知する「神明」の徳を持つことができる、という教えです。

つまり、今まさに活躍する世の中のリーダーが、自らの知性や在り方を超常的な、あるいは神聖な領域にまで高めるプロセスに、「洗心」が不可欠であったことを指します。

直観の基礎は「洗心」にある

こうした教えを見たほとんどのリーダーは、「それならば瞑想だ」と坐禅や瞑想に没頭するようになりました。

しかし、それでは「聖人、これをもって心を洗い、退いて密に蔵る」ではなく、「聖人、退いて密に蔵る」です。

非常に率直な表現をするならば、汚れと雑音にまみれた心で自分の内面を見つめ、坐禅し、瞑想したところで、そこから得られるのは直観ではなくエゴの声なのです。

もちろん、静寂の中で「これはエゴの声だな」と気が付くこともあるかもしれません。

しかし気が付くだけでは、汚れも雑音もなくなりません。

エゴの声は一度引っ込んでも、また手を替え品を替え、あなたの心にもっともらしい声と言葉で囁きかけてくきます。

心を清め”続ける”こと、真我をとりまくエゴの声を手放し”続ける”ことが、直観を歪めないために必要不可欠なのです。

直観力の開発は、リーダーの必修科目

古来のリーダーは先人たちが編み上げた思想体系から「在り方を極める道」の重要性を理解していました。

これは社会的成功ではなく、人間的成功の重要性を理解していたことを指します。

だからこそ、静寂で在ること、自分の内側を見つめること、心を洗うこと、摂理と接続して直観を得ることを、当然の教養として知っていました。

しかし私たちはつい最近まで、それを知りませんでした。

今でも知らないという方のほうが多いのではないでしょうか。

感度の高い方が、マインドフルネスやスピリチュアルの流行を見て、ようやく「そういうものがあるらしい」という程度の認識しか持っていない。

それが「悟りと覚醒を深め、在り方を極める道」です。

東洋思想においては、易経を見てもわかるように、古来より人間的成功を重視してきました。

しかし資本主義社会において、あらゆる物事が欧米化し、社会的成功の賞賛と羨望が大きくなりすぎましたね。

今、資本主義はついに「先がない」ところまで行き着き、政治、金融、テクノロジーにおける既存の信念体系の崩壊しつつあります。

この崩壊とともに「人間としての在り方」が見直され、二つの成功を統合したリーダーとして覚醒していくという時代の流れがきていることは、あなたも肌で感じているはずです。

まずは「スキルとしての直観力を習得する」ことを通して、疎かにされてきた人間的成功の領域を高めましょう。

それが、あなたの人生の質、そしてリーダーとしての格を決めます。