こんにちは、エグゼクティブコーチの大場麻以です。
スピリチュアル・マテリアリズム(Spiritual Materialism)とは、「精神の物質主義」と訳される概念です。
これは精神的な探求や実践が、むしろエゴをより強化・肥大化させる道具になってしまうという落とし穴を指します。
スピリチュアル・マテリアリズムの実態
「スピリチュアルなら関係ないな」と思われるかもしれません。
しかし以下のようなものが精神的物質主義の隠れ蓑になっているケースが後を断ちません。
瞑想、ヨガ
山岳修行
インド修行
シャーマン修行
エジプト、ギリシャ聖地巡礼
哲学コミュニティ
神道・日本史史研究コミュニティ
能力開発セミナー
もちろん、これら自体が悪いというわけではありません。素晴らしいものもたくさんあります。
しかし多くある発信・企画の中に精神的物質主義が紛れ込んでおり、それは一般的には見分けがつかないというのが現状です。
提唱者チョギャム・トゥルンパ
この精神的物質主義(スピリチュアル・マテリアリズム)は、チベット仏教の著名な指導者である『チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ』によって提唱されました。
西洋社会におけるスピリチュアルブームの中で、多くの人々が「精神的な道を歩みながらも、その実践をエゴの利益のために使っている」ことに警鐘を鳴らしていました。
彼は、真の精神修養の道は「自我の破壊」であるのに対し、スピリチュアル・マテリアリズムは「自我の再構築」にすぎないと言います。
できることなら、精神的物質主義の世界には関わりたくない。
自分の人生に真摯な方であれば、そう感じるのが自然だと思います。
しかし私も昔はこの見極めにとても悩みました。
学ぶ場所を間違えないよう、関わる相手を見誤らないよう、足をすくわれないように、神経をすり減らしていた時期が長くあったのです。
あなたが同じ悩みに時間を取られないよう、もう少し詳しく掘り下げましょう。
エゴを肥大化させる「精神的なトロフィー」の収集
私たちが物質的な富や地位を収集するように、スピリチュアル・マテリアリズムに陥った人は、精神的な「トロフィー」を集め始めます。
たとえば……
「有名な指導者から教えを受けた」
「特別な覚醒体験をした」
「難解な修行を完了した」
「悟りの境地に達した」
このような体験や知識を、自分のステータスや優位性を示すために利用します。
これにより、「自分は他の人よりも精神的に優れている」というエリート意識が醸成され、エゴが強化されてしまうのです。
実はこの精神的物質主義の傾向は、金銭的成功を収めている経営者、起業家に非常に多く見受けられます。
しかしこれでは「私は◯◯円稼いでスゴいんだぞ!」という自慢が「私は◯◯で覚醒体験してスゴいんだぞ!」という自慢にすり替わっただけに過ぎません。
なぜスピリチュアル・マテリアリズムは危険なのか
自己中心性を強化する「高尚な動機」という罠
スピリチュアル・マテリアリズムの最も巧妙な点は、その動機が「高尚」に見えることです。
たとえば、「富を得て、その力を使って世界をより良くする」などですね。
一見すると、利他的で美しい志に思えます。
この言葉を掲げるすべての人が、エゴを肥大化させているというわけでもありません。
しかしその根底に、個人的な成功への強い執着や支配欲が隠れている場合があるのです。
エゴは、「利他」という美しい仮面を被ります。
「利他」という否定しようのない概念の下で、自己の欲望を正当化し、さらにその力を強めてしまう。
これが精神的物質主義の恐ろしさです。
精神的な探求が「個人の欲望の実現」にすり替わる
本当の真理の探究、精神的な修養とは、苦しみ、不都合、不快、難解さの原因を自分の内側に求め、迷い、悩み、執着からの解放を目指すものです。
しかし精神的物質主義に陥ると、どうなるでしょうか?
その目的が「個人の欲望をいかに効率よく実現するか」にすり替わります。
瞑想も、統合も、精神修養も、エネルギーワークも、本来は悟りと覚醒を深めるための手段であるはずが、自分の人生を都合よくデザインするための「願望実現ツール」と化してしまうわけですね。
「引き寄せの法則で理想のパートナーを手に入れる」
「波動を上げて年収を倍にする」
きっとあなたも誰かの投稿や広告で、一度は見たことがあるはずです。
しかしこうした使い方は、精神性とは名ばかりで、実態は物質主義そのものなのです。
真の悟りと覚醒の道への回帰
スピリチュアル・マテリアリズムの罠を回避し、真の精神的な道に戻るためには何が必要か。
それは謙虚・自律・利他です。
不安や悩み、焦り、欠乏感があるときほど、知らず知らずのうちにエゴが肥大化し、エゴで物事を進めるようになっていきます。
そう、精神的物質主義に陥ってるほとんどの人に、悪意なんてないのです。
彼らはただほんの少しのボタンの掛け違いで、道を逸れてしまっているだけであり、私も含めて「明日は我が身」であることを忘れてはいけません。
自分自身に誠実であるためにも、常に謙虚、自律、利他を意識することが大切なのです。
「動機善なりか、私心なかりしか」
これはエゴなのか、エゴではないのか。
自分の選択に対して正しく判断することは簡単ではありません。
たとえば夕飯のメニューを決めるときに、その選択がエゴかどうかなどと気にもしません。
しかしお金、人、事業が絡むと、その判断が狂います。
さらに判断する対象の規模が大きくなればなるほど、エゴも大きくなりやすいのです。
このようなとき、稲盛和夫氏の教えのひとつである「動機善なりか、私信なかりしか」という自問自答のフレーズはとてもよく効きます。
目の前に大きな利益を得られるビジネスチャンスがあるとき、思わず飛びつきたくなるのは人の性です。
大きな事業をぜひあなたに任せたいと言われたとき、不安半分、喜び半分で興奮してしまうのも、よくある話でしょう。
しかし、その決断をする前には、やはり自問自答する必要があるのです。
「これは本当に善い想いからくる決断なのか。エゴが混じっていないだろうか」と。
大きな決断であるほど、何日もかけて自問自答します。
これを直観でサラッと決めていく道もあるのですが、直観の答えは直観の答えとして脇に置き、今一度自分の内側に問い直すというプロセスも大切です。
執着を手放すことで、結果的に理想の結果を手に入れる
富や成功といった物質的な結果は、精神的な道の副産物として現れることはあります。
しかしそれを目的にすれば、たちまちスピリチュアル・マテリアリズムに陥るのです。
だからこそ、結果へのこだわりと執着を手放す。
これは難しいようですが、実は長期的に素晴らしい成果・結果を創出していくために、もっとも大切です。
なぜなら在り方が変われば、結果は自ずと変わるからです。
そのために日々内省し、自身の負の感情を統合し続け、誠実で在ること。
自分の在り方を磨き、視座を高め、器を育てること。
こうした地道な積み重ねこそが、本当の悟りと覚醒への道なのです。
精神的物質主義に陥らず、真の変容の道を歩むために。
今一度、自分の動機と在り方を、正直に見つめ直してみてください。
























