アセンションに『優劣』はない。観音菩薩が教えてくれた、コーチの在り方と魂の成長

こんにちは、大場麻以です。

アセンションに優劣はない。

これは自分自身の魂の成長に真摯であれば、必ず目や耳にするであろう考え方です。

波動が高いからと言って素晴らしいわけじゃないし、波動が低いからといって悪いわけではない。

それは確かに真実ですが、どんなときでもブレずにその前提に立てるくらい、腑に落ちている人が果たしてどれくらいいるでしょうか。

  • 誰かの「すごさ」に圧倒され、自分を「劣っている」「遅れている」と感じる
  • 低い次元の悩みや争いをしている人を、冷ややかな目で見てしまう/上から目線で手助けをしようとする
  • 特定の出来事や人に対して、すべての前提を忘れて「この人はおかしい」と思い込んでしまう
  • 素晴らしい人たちや存在から縁遠くなっていくことに不安を感じる/縁を繋ぎ止めようと必死になる

そんな経験ををしたことは、きっと誰しもあるはずです。

私も実は、『進むべき道の指標としていた、数ある指導者のうちの一人』と、とことんタイミングが合わなくなる=縁が遠くなっていくという経験をしたことがあります。

そのときは、今の自分は本当に大丈夫なのか?と遠くなってはいけない縁から遠ざかっているのではないか?劣り始めているのではないか?と不安になったものです。

優劣の幻想というのは根深いものです。

そしてこれに対する答えは、仏教という意外なところにありました。

如来と菩薩、「優劣」という幻想

そもそも観音菩薩を知らない、仏教をよくわからないという人もいると思います。

簡単に説明すると、仏教には『如来』と『菩薩』、その他にも様々なカテゴリの存在がいるのですが、如来と菩薩は、悟りの段階と役割が異なります。

如来と菩薩の違い

如来とは、「如実(ありのままの真理)から来た者」という意味で、完全に悟りを開き、迷いや苦しみから解放された存在です。

彼らは、宇宙の真理そのものを体現しており、その存在自体が衆生を救済する光となります。

釈迦如来(お釈迦様)や阿弥陀如来などがこれにあたります。

一方、菩薩は「悟りを求める者」という意味で、自身も悟りを目指しながら、その慈悲の心から、他の衆生を救うためにこの世にとどまる存在です。

彼らは、悟りの智慧をすでに持っていますが、あえて個人としての完成を急がず、苦しむ人々を助けることを選んでいます。

観音菩薩や地蔵菩薩、弥勒菩薩などが有名です。

簡単に言うと、如来は「悟りのゴールに到達した存在」、菩薩は「ゴールを目指しつつ、道で困っている人を助ける存在」と言えますね。

ヒエラルキーで捉えてしまう罠

では、すでに悟っている如来が立派で、悟り途中の菩薩は「如来に比べて未熟」なのでしょうか?

この悟りの段階をわかりやすくピラミッドで表す例も多く、ついついヒエラルキー的に捉えがちです。

もし「上司と部下」「オーナーと労働者」「富裕層と庶民」といった現実世界での階層、分離、優劣意識を抜けることができても……

無意識のうちに、如来を「上」、菩薩を「下」と捉え、次元が高いことを「上」、低いことを「下」と捉えるようになります。

その意識を完全に手放しきれていなければ、スピリチュアルでも仏教でも、また場所を変えて、同じ優劣のピラミッド構造を持ち込んでしまうのです。

観音菩薩の究極の選択に学ぶ

私は敬虔な仏教徒でもなければ得度しているわけでもないので、専門でその道を学ぶ方からは解釈が違うと感じられるかもしれません。

ここからは私が観音菩薩というエネルギーにチャネリングして得た情報を交えて書いていきます。

まず菩薩とは、「一切の衆生が救われるまで、私は仏にならない」という誓願を立てた存在です。

そしてその中でも観音菩薩は、「世の中のあらゆる人々の声や苦しみを観じ、それに寄り添い救済する」とされています。

あらゆる悩み苦しみに対応するために、あらゆる音を聞き、あらゆる姿を取るとも言われていますね。

なぜ観音菩薩は、個人の完成である「如来」になることを選ばなかったのか。

見方によっては自己犠牲的にも思えるかもしれませんが、実際は違います。

仏教における悟りとは「煩悩を脱ぎ捨て宇宙の意思と調和すること」ですが、 観音菩薩は、個人的な悟りや完成よりも、他者への貢献に究極の喜びを見出しているのです。

如来にまで上がってしまうと、直接的な救いはできません。

意識次元が上がれば上がるほど、私たちの観測する世界とのギャップは広がり、具体的な救済という干渉ができなくなります。

あらゆる悩みに対応し、他者へ貢献し救済することが、観音菩薩という意識にとっての究極の喜びだからこそ、菩薩という立ち位置で私たちの世界に関わってくれているわけですね。

これが「アセンションには優劣がなく、役割の違いがあるだけ」を如実に表した例であり、役割とは「何を究極の喜びとするか」の違いであることがわかります。

これは個人の選択であり、この喜びが果たされる場所を、各々が選ぶ。

それこそが「個性」であり「それぞれの人生」なのです。

コーチという仕事に見るアセンションの在り方

具体的に人を助けるという喜びを満たすために、如来ではなく、菩薩という立ち位置を選ぶ。

観音菩薩の在り方は、私たちに「優劣」という幻想を手放すことを教えてくれます。

そして「コーチが本質を生きる」というのは、如来よりも菩薩の在り方が近いということに、気付いた人も多いのではないでしょうか。

スピリチュアルな業界では自分の意識次元をどんどん上げていくこと、自分自身をクリアになっていくことを目指す人が多いです。

これは「個人として早々に完成し、如来に至る」という在り方です。

この場合、悩んでいる人をどうすれば助けられるか、という意識はあまり持ちません。彼らにとっての最高の喜びは「自分の上昇」なのです。

加えて、自分自身の意識次元を上げ、エネルギーを高め、クリアでいること。この在り方がすでに社会貢献となります。

貢献という結果だけ欲しいなら、具体的に助ける必要も、コーチという仕事をする必要もないんです。

それなのになぜ、あなたはコーチや対人支援者として、わざわざ人に何かを教え、人の悩みを解決し、人の成長に寄り添いたいと思っているのか。

それは、あなた自身が「それが自分の喜びだから」ではないでしょうか。

自己肯定感の欠落を、他者貢献という行動と得られる謝礼で満たそうとしてしまう、という人が多いのも事実です。

その場合は、まず自分の本質を学び、本質に一致するところからスタートし、自分の本当の喜びを見出し直していく必要があります。

しかし日頃から本質を極め、本質を生きると決め、本質に真摯に向き合い続けているコーチが、「コーチという仕事が好きだ」と感じるとき……

それはある意味で観音菩薩の精神性であると、私は感じています。

本質に深く繋がるために

アセンション、次元上昇という文脈では、どうしても「上がることが正義」「高くてなんぼ」みたいなところが多く見受けられます。

しかし本当は「高さ」や「上がること」は「意識の重量が軽くなれば、上がることも選べる」という結果でしかありません。

本当に大切なのは、本質に「深く」繋がること。

そして、自分の本質が何を究極の喜びとするか理解し、それを全身全霊で楽しむこと。

本質に深く繋がるという在り方・プロセスを経ることで、自分の究極の喜びを楽しめる場所に、自由自在に滞在するための軽やかさが手に入るわけです。

あなたにとっての本当の魂の成長とは、誰かの真似をすることではありません。

ましてや定型的な、あるいは「皆にとっての最善に見えるルート」を辿ることでもありません。

あなたの成長は、あなたの本質を生きることにあります。

そしてそれをコーチという存在が体現したとき、コーチのクライアントとコーチと縁ある人々は、コーチから具体的な手助けを得ながら、コーチのエネルギーに触れて「本質を生きる」ことを思い出し始めるのです。

ぜひあなたも、コーチとして「本質を生きる」ことを選んでくださいね。